この菅野憲道師の論文は日達上人が課題論文として教師各位に提出させたもので、その中の優秀論文として認められ、教師講習会で発表後に「富士学報第5号」(昭和51年5月1日発行)に掲載された論文ですが、発刊後、すぐに回収されて、幻の書となったものです。
昭和47年の正本堂落成を契機に創価学会は宗門支配か、もしくは独立を企図した『広布第二章』という新たな独自路線をめざします。そのため、池田大作によって日本の広宣流布は成しとげられたものと主張する根拠として、「舎衛の三億」(本来の意味は仏法は値い難く聞き難いことの譬え)を引き合いに出し、国民の1/3が信徒になれば「広宣流布」が達成されたものと強弁し、大石寺の名称を本門寺へ変更(広宣流布達成を意味する)することなどを日達上人に追認を迫った時のものです。(すでに、広宣流布の時に開かれるとする大石寺「不開門」(あかずのもん)を開くのは天皇や敕使ではなく、会長池田大作がその人にあたると聖教新聞でも発表していた)
当時、池田神格化のため、組織センターによる演出の一環として、すべてをお見通しの仏として数々の逸話を作らせてこれを座談会等で宣伝し、「人間革命」を現代の御書(日蓮大聖人の御遺文)として会員に繰り返し学習させており、池田大作自らの自己宣揚と組織統制のため、日蓮正宗の教義にも裏付けられた偉大なる指導者として崇拝するよう画策していたのでした。
こうした中で、宗門本来の『広宣流布』『本門寺改称』がどのようなものであるかを日達上人が教師各位に論文で提出させ宗門本来の教義を示したもの。(日達上人が認められたことはその講評からも伺えます)
ところが次期法主の座をうかがっていた阿部信雄氏は、創価学会の支持を取り付けることが登座実現の最大の援軍と考えたか、池田大作に卑屈なまでの姿勢をとっており、日達上人が創価学会の教義逸脱に強い危機意識を持って警鐘をならしていた時期に、その逸脱を是正すべき教学部長という職責にありながら、「学会に謗法は無い」などと擁護する側にたち,、創価学会の意を受けて宗務院院達などで学会批判の沈静化に勤めていた。
52年路線といわれる、同年正月の会長講演「仏教史観を語る」何んおお回り発言迎五ウする、kれをるに的何時?つを、かんがえt出世のに組みする阿部(当時、教学部長でのち日顕を名乗り法主・管長を詐称)氏は、この論文を創価学会批判と捉え、学会本部にご注進とばかりに提出し、その後に池田大作の指示による学会本部等での『僧侶吊るし上げ』へと発展しました。また、阿部氏は教学部長名で宗務院達を通じ、全冊回収を命じ、指示に従わないものは処分すると威圧したため、ほとんどが回収され現在は幻の書となり、わずかに残るのみとなっています。



回収された富士学報
