(文責 源立寺法華講 有志)
*各項目について鋭意制作中ですが、御住職の指導により修正させていただく場合がありますにで
御了承ください。
正本堂建立時前から新たに始まった宗門と元信徒団体・創価学会との確執を明らかにし、その経緯を検証すると共に正信の姿を探ります。
(はじめに)
【創価学会の法人取得と第三代池田大作会長の誕生】
治安維持法違反、不敬罪で昭和18年6月に逮捕投獄されていた初代会長牧口常三郎は昭和19年(1944)
獄死し、昭和20年(1945)に出獄した戸田城聖は翌年3月「創価教育学会」から「創価学会」と改称を行
い再建を図った。(昭和22年には、後に第3代会長となる池田大作が入会。昭和26年(1951)5月には戸
田が第二代会長へ就任)戸田は宗教法人の取得を目指し、同年12月、日蓮正宗法主の日昇上人(当時)へ
お目通りをし、日蓮正宗からの出された三ヶ条の条件を満たし、守ることで、宗教法人としての申請・
取得が日蓮正宗本山から許可され、昭和27年(1952)宗門を外護する団体として宗教法人創価学会が誕生
した。
その三ヶ条とは
①入信者は信徒として各寺院に
所属させること
②日蓮正宗(当山)の教義を守
こと
③三宝(仏・法・僧)を守る
こと
である。
その後、昭和33年(1958)4月には戸田城聖が逝去。昭和35年(1960)に池田大作が第三代会長に就任
している。


【正本堂建立前から表面化した、新たな確執】
身延山久遠寺の院主であった二祖日興上人は身延の地頭・波木井実長、学頭民部日向の謗法(日蓮
大聖人の教義に背くこと)により身延離山を決意し(1289)、富士上方,上野の地頭、南条時光の招き
と寄進により、大石ケ原の地名をとって仮称「大石の寺」として開かれ、『大日蓮華山大石寺』とし
て法華本門の教義と化儀を護り弘めてきた。
日蓮正宗には古来より『三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺本堂なり』『富士山に本門寺の戒壇
を建立せらるべきなり』(身延相承書)とのご遺戒が伝えられ、日蓮大聖人の教えが正しく、広く流布
した(広宣流布)暁は、寺号を大石寺から本門寺と改め、所蔵の「戒壇の大御本尊」を本堂へご安置する
こととされていたのである。
【池田大作の野望と金銭への執着】
昭和35年(1960)第3代会長へ就任した池田大作は、当時75万世帯といわれた会員拡大を目指し、
『折伏大号令』を下し、日蓮大聖人の教えを我田引水しながら、強引な勧誘とご利益信仰を煽り、
その拡大を図ったのである。
尚、昭和26年には、戸田二代会長が「青年訓」を発表し青年部を中心に『折伏大行進』と呼ば
れる大々的な布教が開始されており、2〜3万の会員を戸田が生きている間に75万人にすることを
掲げ、組織を軍隊化し、数のみ競う強引な勧誘方法は社会問題にもなっていた。これを池田が引
き継いだのである。
さらに政治結社(公明党の前身・公明政治連盟)を昭和36年に立ち上げ、政界に影響力を持つ
ことを目指し、『王仏冥合』を旗印に口癖の「天下をとる」ことを目指したのである。
3代会長就任から5年後、昭和40年(1965)には第二代会長戸田城聖の遺言と称し、戒壇の大御
本尊を安置する「正本堂建立」が創価学会主導で計画され、「正本堂建立御供養」が行われた。
この時建設資金のための『御供養』へ参加した人は、宗門、全国法華講連合会、創価学会を合
わせて約800万人にのぼり、わずか四日の間に集まった金額は五百五十五億円に達した。
(聖教新聞社発行・「正本堂」から)
こうした宗門を含めた信徒全体の赤誠により、昭和47年(1972)10月には世界的にも類をみない
名建築として、各界からの称賛の声を浴びながら完成し一週間に渡り盛大な落慶法要が行われた。
しかし、この正本堂落慶を境にして創価学会は、宗門を支配下に収めるか、もしくは日蓮正宗
の信徒団体としての掣肘から離れ宗門からの完全独立を以前から画策していたのである。
落慶当時、聖教新聞では「七つの鐘」「広布の総仕上げ」「広布第二章」と盛んに聖教新聞に
掲載し、「摩訶止観」や「大智度論」を出典とする『舎衛の三億』を唐突に持ち出し、広宣流布
は達成されたもの(以降は宗門へ束縛されないとの計画を持っていた)として、広宣流布達成の
証として大石寺の本門寺への改称や「不開の門」(客殿の正面にある小さな門で勅使門ともいう。
広宣流布の時まで開かれることがない)の開門を要求し、池田は自らその門を通ることを望んだ
のである。
(宗門はこれらを「未だ広宣流布の道半ば」として拒否)
さらに翌、昭和48年(1966)10月14日、正本堂法庭東側完成法要後には、池田大作は自分の思
惑通りにならない第六十六世日達上人を大衆の面前で罵倒した後、宗門から創価学会への十三億
五千万円の寄付を要求した。
こうした動きは、わずか4日で五百五十五億を集めたことが背景にあり、当然ながら、池田会
長の会員信者を我がものにした上で、金銭的にも教義的にも宗門は抜きに自由にし、天下取りの
野望を果たす(創価王国を作る)思惑から出ている。
そしてこの池田の宗門支配の考えは正本堂御供養が行われた直後、正本堂落成の5年も前の42
〜43年頃には既に考えられていたのである。
この頃の池田大作の思惑は、『日本の広宣流布を達成した偉大なる指導者」との評価を得て、海外
展開では、謗法を犯してでも創価学会を拡大する野望があり、『日蓮正宗国際センター』(仮称)を作
り、自分がトップに座ることで、宗門を経済的・法義的にも縛ろうとするものであった。
さらには池田は自身を、『日蓮大聖人の再誕』『現代の仏』であることを宣揚しようと、「沖縄の
赤い靴」・「清澄山の千年杉」(恵日・2023/5月号)などの例に見られるように『全てを見通す仏』
を演んじたのでる。そして、会員には『現代のご本仏』『現代の偉大なる指導者』(上行菩薩の再誕
・創価学会仏)と擦り込んだのである。
また、ゴーストライターに書かせた『人間革命』を日蓮大聖人の御遺文(御書)に代わる「現代の
御書」と称して会員全ての人々に購読を勧めたのである。
昭和35年(1965)以降、正本堂落成の頃には会員数は公称800万世帯(実質はおおよそ250万世帯)
と豪語し、ご利益信仰を餌に飛躍的に膨れ上がった創価学会員は、表向きには寺院所属の信徒とされ、
葬儀・法事・結婚式・お盆・お彼岸等の宗教儀礼時は寺院に参詣し、その都度会員は寺院に「御供養」
(供物や金銭を供えること)を行なっていた。
また、学会では会員からの寄付を募り、宗門の新寺院建設や大石寺客殿建設などを通じて、塔頭を
整備し寄進をしていたことから、「学会は御供養するが、宗門から学会には何もしてくれない」と池
田大作は常に口にしていた。
こうしたことを背景に会員が寺院・宗門へ『御供養』することに忸怩たる思いを抱いていたのは想
像に難くない。池田の金銭欲から海外寺院では信徒の『御供養』を創価学会が管理し、日蓮正宗僧侶
は学会から給与をもらう様なことが行われていたのである。
日達上人が「僧侶はいらないでしょう」と言うのは当然で、別法人が他の宗教法人を管理するとい
うおかしなことが行われていたのである。
(多くの宗教団体は脱会者をカウントせず、実数を水増し公称としている)